昭和43年05月09日 夜の御理解
「信心をして身に徳を受ければ心配はない」と。身に徳を受けて、心配のないと言う所まで信心を頂きたい。又そういう信心を目指しておかげを頂きたい。本当にこの心配がなくなったせいか、有難いですね。そりゃ色々問題もある。難儀もあるでしょう。けれどもその事が心配にならない。いやむしろお礼を申し上げれる様な心持と言った様なものが、確かに開けて来ると思うですね。そういう信心をお互いひとつ目指したい。身に徳を受ければ心配はないと仰る。
ですから身に徳を受ければ心配はないと言う事はだから、身に徳を受ければ不平も出らない、不足も言わんですむと言う事でもある。そこでその、又言うて聞かせるとか、分からせるとかと言った様な事もひとつ無く成って来るんですね。もう何も言わんで済む。唯有難い、その有難いというのが、自分の周辺一杯にこうみなぎって来る。お徳を受けた人が家の中に一人あると、家の中が明るくなる。
何とはなしに豊かな雰囲気が生まれて来ると言った様なおかげを頂きたい。その為に、その過程として、矢張り私共に心配があったり、不平不足を言うたり思うたり致します、過程です。だからそれをその、なおざりにしないで行かなければなりませんがね。その心配をせんで済み、又は言わんで済むというその反対にですね。私は本気で心配をしなければいけない。その本気で心配になる。その本気でを私は神様に持っていかにゃいけんと思うです。それは信心しよるけん何とかなる。
当の安心も出来ずに何とかなると言った様なのは、是は私は、横着だと思うですね。如何にも、神様を信じておる様であって、実際は本当に信じておるのじゃないのですね。又過程においてはですね、言わんで済む様なもう言わんでもと言うのじゃなくて、本当に言わなければ居られない、この神様の働きをこの神様の有難い事を分かっておるなりにでも、人に伝えなければ話さなければ居られない。
そういう過程がなからなければいけない私共ですけれども、バスの中であろうが汽車の中であろうが、もう横にかけた人は私の話を聞かんならんもんとこう思うて。だから話をする切っ掛けをです作るんですよね。もう汽車の中でももう、列車の中で立ち上がってからお話をしよりました。もう話さなければ居られないそう言う所から、なら段々まあ現在では、言うならば言わんで済むおかげを段々頂いて来よると言う事がある。
矢張り私の心の中に信心して身に徳を受ければ心配はないと仰るが、心配はない所迄は行っておらんけれどもそういう過程にある事が分かります。だからその過程においてはですね、もう言わなければ居られないと言う様なものがなからにゃいけんです。イナカズの高山さんじゃないけれども息子さんが信心がない。金光様の悪口でも言うとお前は私が一番好かんこつを言うばいなと言うて腹かける位な私くしにならにゃいかん。
あれは信心が分からんのだから、と言う間はまあだほんなもんじゃないと思う。本当に自分の、言うなら大事にしておる、言わば尊敬しておる、一番有難いと思うておる神様の事を悪口を言われたら、もうそれに対して反発のひとつでもさして貰わなければ居られない様なものが、過程においてはなからなきゃいけない。今日あの丁度お風呂に入ろうと思うてから、テレビ室に入ったら丁度あの、活動一代記というのがあってますね、今。牧野省三さんですかね、省三さんのまあ一代記だろうと思うんです。
息子さんのまさひろさんが監督して、そのやっております。丁度その所謂活動写真とこう言うとった時代ですね、活動写真の言わば出来るまでのひとつの苦心談でしょうね。そのあの省三さんのお母さんが熱心な金光様のご信者さんです。もうお座敷いっぱいにお神様がお祭りしてある。もう事あるごとに、まあお母さんが拝まれる。所謂省三さんもやっぱりお参りをされるという場面が映画に出て来るんです。
ところが段々、段々難儀な困った事になってまいりますと、その省三の嫁さんがですね、お母さんが金光様金光様と言うけれども、何ひとつとして良か事が一遍でも有った事が有りますですかという意味の事を言うんです。もうとにかく優しいお母さんがですね、その時ばかりはもう、嫁さんの横面はじきまわす。私はそう言う様なものが、もう他の事は別として、私が是だけ信頼を申し上げておる神様の事をあんた、ようもようも悪く言うたなというので御座いましょう。
そして今日の所はですね、その嫁さんが御本部参拝をする所があるんです。御本部がこう大写しにずぅっと写るんですよね。そしてその御本部で尾上松之助との出会いになる訳です。そして帰って来てから、その「省三」達夫婦がですね、これも一重に金光様のお引き合わせであろうと言うてその、喜ぶ、ね。その約束をした「松之助」が中々やって参りません。構えております。だからもう来んだろうと諦めておる所へやって来る時にもう、夫婦が喜んでですね、もう思わず知らず神様の前へ出てお礼を言う。
家内がおろうそくを立ててから、その拝む所が今日は御座いました。そういう是はもうあのぅ映画以上でしょう「牧野省三さん」達が、とにかく芸能人にこの金光様の信者が多いですからね。歌舞伎の成駒屋あたりが皆そうです。その中村扇雀やらね鴈治朗あたりも熱心な御信者です、それから今あの中村時蔵ですね。何ですかあの勘三郎さん達一門は全部、金光様の熱心なご信者さんです。でその矢張り牧野まさひろさんね。
お父さんの「省三さん」も矢張り熱心なお母さん譲りの信心であったと言う事が、もう映画出て来る以上で御座いましょうけれどもです。言わば本当に反発しておった嫁さんがですね、お母さんの信心に付いて来ると言う様な所が今日はある。その過程においてはです、本当にお母さんが金光様の言う事を腹かかっしゃるから参るのじゃなくてですもう愈々ん時には矢張り、親が一生懸命信じ念じておる、良い御本部へお参りしてからお願いをするとこう言った様な所からです。
本当に道が開けて来るのですよね。いわゆる、あの一世一代の名優と言われた「尾上松之助」が田舎芝居の座長であった。そしてあの目玉の松ちゃんで、売り出すまでの初めの所が、今日は出て来るんですけれどもね、その過程を言うておっても矢張り、今私が申します様にですね、確かに信心さして頂いて徳を受けると。又徳まではいかんでも、神様を分かって来れば来る程に、心配が無くなる。
不平不足は言わんで済む様になる、言わば言う事は言わんですむ様になると。けどもその、過程においてはです、言わなければおられない熱情が、ほとばしる様なもの。同じだから心配をするなら、神様にお願いをしとるけんでというのじゃなくて、本気で心配をせにゃ、本気で私はその心配がです、本気で神様へ打ち向かう。いわゆる心配する心で信心せよと仰るものが無からなければ、お願いをしとるから。
お取次ぎを頂いとるからどうとかなる位な、私は安易な、言わば安心と間違えておる安心では、私、本当の神様には逢う事は出来ないと言う風に私は思うんですね。身に徳を受ければ心配はないと仰る。本当にあの心配も、しておる間は信心が足りんものと思わにゃいかん。不平不足が出る時には成程、神様を信ずる力がない事を思わにゃいかん。けれども過程においてはです。
初めから(お世話?)はおらんのですから、疑いも良かろう心配も良かろう。だからそれをそのままその、迫力を持って神様に打ち向かえる。そしてそこに体験が生まれる。有難い所が段々分かって来る。その神様をです、人に導く時でも、又悪口でも言うたら、もう他の事なら決して腹立たない人が、金光様の事を、悪口でん言うならもうあの人はもう、腹かかっしゃると言う位にです、腹かけれるだけの信心に、お互いがならにゃいかん、過程において。
何時もかつも腹立てる様なこっちゃいけんけれども、そこんところをですね、私はお互いがどうじゃろうかと。本当の神様有難いと頂いていないから、それを人に説得する、言わばそういう迫力も持たない。と言うてんなら、信心しよるからと言うて本気での心配もせんでは、何時まで経っても信心して居る事によって、徳を受けて、身に徳を受けて心配はないと仰る様な、私は境地が開けて来んのじゃないかと思うですね。
どうぞ。